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もやい論壇

原発崩壊は天の声、脱原発は民の声

2011年08月27日

原発は日本の自然に合わない。

 原発はそれ自体不安定、いったん暴走を始めるとコントロール不能の危機に陥り、かつ廃棄物を処理できない不完全な体系だ。地震や津波害がなくても起きたスリーマイルアイランドやチェルノブイリの原発事故はその証明だ。しかもその体系が生む災害は環境中の生命体に重大な障害をもたらす。とりわけ精妙であるだけか弱い有機体の人間にとっては致命的な災禍となる。

 まして日本の54基の原発は地震列島という地震の巣にある。自然の威力の前では人間の工作物など砂上の楼閣にすぎないことを思い知らされた。予知の方策を研究して防備を整えるといっても、どんなに工夫をこらそうと起こるべき地震・津波の場所と時期と規模を予知することは不可能だ。

 今回の地震・津波に原発災害がなかったなら、時間はかかるにしても痛苦と損失は乗り越えられるだろう。日本の自然はその苦闘を支え、日本人は先史以来何十回となく大災害を乗り越えてきたことを誇るに足る。だが原発災害は環境と人間にとって異常な事態をもたらした。放射能汚染は将来にわたって異常環境を生みだすからだ。汚染地域に住み続けることはできないのだ。チェルノブイリ事故の際、15キューリー/平方km以上の汚染地域は14万5千平方km、そこかに居た住民40万人が避難した。この汚染度は55万ベクレル/平方メートル相当だが、福島原発の場合、20-30km圏の緊急時避難準備地域でも汚染度がもっと高く450万ベクレル/平方メートルに達する。3キロ圏は勿論、数十年にわたって住むことのできない地域は広大な面積におよび、住民の痛苦が続くことになる。

 M9という未曾有の大地震とはいえ、その巨大地震の災厄を異常増幅したのが原発震災であることは否定しようがない。ヤサイ、茶、わら、水、肉、魚の汚染がスポット的に報告されているがいまだに断片的調査のままだ。林、農地、町、屋敷、道路、校庭、公園と環境が広域に汚染されていることは明白なのにである。汚染された瓦礫や除染した土、下水汚泥の隔離と処理は莫大な時間と経費がかかる。広域にわたる基本調査がなく、全体像の把握は放置されている。その間も被爆は確実に進行する。そして近い将来に第2、第3のM9地震が来ない想定などありえない。福島原発の崩壊は天が危機の形を警告したもの、私たちは天の声に謙虚にしたがうべきである。原発はやめねばならぬ。

脱原発への歩みをすみやかに

 原発震災をさらに増幅したものに人的要因がある。原発震災は人災である。原発を推進してきた東電、政府といわゆる原子力村に連なる専門家たちが犯してきた判断ミスに原因がある。原発建設過程で地震学者や土木学会、在野の原発技術者、公害研究者などから出された多数の批判、反対を建設側は封じ込めた。予想される地震や津波の規模は対処し得る範囲に限定した。原発建設を絶対の前提とする陣営にとって想定の完全性を偽装することは不可避だっただろうが、もし原子力村の住人が科学者だったなら、この想定範囲が暫定的なものであることを公表し、原発の安全性について知識と対策を深めるべきだった。自然の構造について人間が理解している部分はほとんど無に等しいと科学者は皆自覚しているからだ。だが結局彼等は偽装想定を絶対化した。それに対応した設備の原発が絶対安全という虚構に自らも落ち込み、国民と原発地域住民を砂上の楼閣へと誘導した。

 3月12日15時36分に福島第1原発1号機で爆発があり、相次いで、14日11時頃に3号機、15日朝に2号機、4号機と爆発が続いた。ベント、注水と緊迫事故の息詰まる展開を見守った国民のまえで、専門家の化けの皮は一瞬にしてはげ落ち、安全神話は一転底知れぬ恐怖を告げるホラー物語となった。東電、原子力安全委員会、原子力安全・保安院は原発で何が起こっているのか五里霧中、推察することもできないその無能さを白日のもとにさらした。原子力安全委員会の長が爆発しないと請け合った直後に爆発する場面もあった。

 在野の原発技術者や米仏独の専門家は冷却水の止まった数時間後には核燃料がメルトダウンし、圧力容器を突き抜けるとの推察を早い段階でのべていた。相次ぐ爆発、高い放射能漏れの進行、2号機の抑制プールで爆発が起こったことなど、炉心メルトダウンを推察させるデータは多数あったと思われる。だが東電がメルトダウンを認めたのは2カ月後のことだった。圧力容器に穴があいているので注水冷却はあきらめることになった。原発事故という有事で二ヶ月後に判断を下していて戦争に勝てる筈がない。

 驚くような話が事故調査・検証委員の調査で明らかになっているようだ。東電は誰も水素爆発を予測していなかった。ベントのマニュアルもなく、設計図を見て応急に行った。Speediによる拡散予測を誰も思いつかなかった、云々。

 最初、事故の国際尺度はレベル5としていたが1カ月後に7へ訂正された。放出した放射線は6月になって77万テラベクレルと発表された。本当か?高濃度汚染水から回収予定の汚泥だけでも20万テラベクレルを超えるのではないか?措置の前に漏れた高濃度汚染水の量は把握されているのか?
1号機から6号機までの炉には約3400体の燃料集合体がはいっていた。燃料集合体一体に装填されるウランは原子燃料工業(株)のデータから推定すると、酸化ウランとして200㎏、内ウラン235酸化物は4パーセントとして8㎏前後、福島原発6基の原子炉全体の燃料集合体は東電の2010年第3四半期のデータによると3430体、これから計算すると酸化ウランが690トン、ウラン235は27トン。これ以外に約6300体の使用済み集合体が共用プールにあり、乾式キャスクに400体があった。大量にあった核燃料に比べて放出された放射線の推定値は過小評価ではないのか。8月26日原子力安全・保安院は1から3号機の放出したセシウム137を1万5千テラベクレル、広島原爆の168個分と試算している。放出されたのはセシウム137だけではない筈だし、使用済み核燃料は無視されている。外国機関の推定はもっと大きい。例えばフランスのIRSNは3月22日のデータに基づいて希ガス200万テラベクレル、ヨウ素20万テラベクレル、セシウム3万テラベクレル、テルリウム9万テラベクレルと推定している。3月22日以降も放出は続いている。
原発崩壊は津波によって冷却水装置が止まったからと宣伝されているが、これは本当か?地震直後に炉心の圧力が急低下したことは地震動で炉心に漏れが生じたからではないのか?その後手動で冷却水装置のオン・オフを繰り返したことは適切だったのか?
東電、政府は情報を公開しない隠ぺい体質がある。しかし原発の安全神話は100パーセント崩壊したことを正しく認めねばなるまい。真実の科学的データを明らかにすることが国民の健康を守る任務の第一歩である。事故調査・検証委員会は真実の全体像を詳細に公開してもらいたい。

 8月22日の毎日新聞による世論調査は原発を今すぐ廃止すべきが11パーセント、時間をかけて減らすべきが74パーセントと報告している。賢明な国民は廃炉に数10年かかることを踏まえているので、この数字は脱原発の世論が85パーセントに達するということだ。菅首相の歴史に残る最大の功績はこの民の声、脱原発の声をとり上げたことだ。大政奉還に並ぶ救国の大英断である。今求められるのはその英断を実現する実際の歩みを進めることである。イタリアは国民投票で決定した。ドイツは内閣で決定した。世界の潮流が脱原発へ向かったことは間違いない。人類を護る三国同盟は大賛成である。

古川 久雄

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被災者に等しく手当てを

2011年07月10日

 東北の被災地で仮設住宅の建設が進んでいる。そのことは復旧への重要な一歩だが、大きな問題がある。仮設住宅へ移った途端、被災者は救援物資の配給を打ち切られる。家、車、お金、すべての財産を失い、身内を失って心に大きな空白が空いてしまった人々に、こんな冷酷無残な法家的措置がありえようか? 戦国時代の中国で覇者となった秦は宰相の商鞅がとった冷酷無残な法家主義的方針が國家崩壊を招いた。商鞅自身も後に車裂きの刑に没した。東北の人々がいかに温和であろうとも、冷酷な法を押し付け、あまつさえ九州のB型を名乗れば粗野な命令を押し付けられると勘違いも甚だしい復興大臣を送り込むようでは、中国式革命の大義を抱く気運が生まれるやもしれぬ。 ボランティア活動の中で聞いた被災者の声を皆さんに届けたい。

古川 久雄

ボランティア報告2

岩手県大槌町青少年体育センター脇、まごころ広場うすざわ。
手紙文庫館長臼澤良一さんの話。

  「家はJR山田線の大槌駅に近く、木造二階家だった。今まで津波被害はうけたことがない。3月11日、地震の後、3時21分頃、津波が迫った。妻と長男の孫、嫁が逃げようと叫ぶ。窓を開けると高さ3.5メートル、数百メートルの壁で津波が見えた。二階に逃げた。プロパンガスが爆発して火が二階にも吹き込んだ。家は三百メートル流された。ガスがあちこちで爆発し、助けてくれの声があちこちから聞こえた。家に車が当たり、火を発して家に火を付ける。灯籠流しのように燃える車が火を付けて行った。コロコロ転がる家も多かったが、我が家は立ったまま流された。阿鼻叫喚の中、炎の中を三百メートル流されて止まった。4,50メートル先に鉄骨2階の家が見え、電線がこちらに延びていた。テレビは消えていたので大丈夫だろうと電線に掴まり、足場を探してはその家まで辿りついた。第二波の津波が来て水位が膝から背までどんどん上がった。家の梁を破って屋根の上へあがった。二階家はどれもほぼ水没していた。近くのコンビニからプロパンの火がまた迫るので、流れる家に飛び移ってはさらに先の鉄骨家へ逃げた。何回かそうやって逃げた。私は助けてくれと叫び続けた。非番の消防団員が流れる家の屋根に脚立を渡し、波の来ていない場所へ救出してくれた。

  寒くなってきた。避難所の中央公民館へ裸足で行った。妻、長男、次男が私と私の犬を見て驚いて叫び声を上げた。炎を上げて流されて行く家の私を見ていたので、死んでしまったと思っていたのだ。避難所は非惨だった。二歳と四歳の娘を失って発狂状態の母親がいた。子供が流され、自分は残ってしまったと泣き叫んでいた。多くの人が同じ状態だった。二人の人が入水自殺をした。

  遠野まごころネットの多田さんと出会った。どちらも医者ではないけれど、手を当てることで苦しみを皆と共有し合おうとまごころ広場を作った。5月2日にテント張りの集会所を開いた。

  3月11日を境に私は価値観が変わった。形あるものにすがる思いから、生きることとは何か、手を取り合って形のないものにすがって生きることが重要と思った。被災者は涙にくれていた。まごころ広場をもっともっと作り、被災者の心を救いたい。みんなで畑を橋向こうに作った。広場は一緒に食事をし、コーヒーを飲み、心を安らげられる場にしたい。

  ボランティアに何が必要ですかと尋ねられるたびに、すべてが必要ですと答える。手を差し伸べて共に生きる、寄り添って生きることこそ大事なのだ。私は津波で考えが変わった。すべてを失って初めて人間は一人では生きていけない、形あるものより形のないものが大事だと判った。奇蹟を三回も受けて神様に生かされたのです。六二歳で判りました、被災者と手を取り合って生きる決意をしました。

 遠野まごころネットの手紙文庫は長く続けたい。大槌小学校にボックスを置き、子供幼児向けの本を中心にして、本を送ってくれる人々と手紙の往復を通して3月11日を風化させない工夫をしたい。町内会、被災者が主体の施設でないとだめだ。大学の教官が國から派遣されて来たりするけれど、彼等は元々行政側だ。コンサルタントが設計し、行政が復興案を作るような計画は拒否する。何故か?大槌町役場は6月24日に通知してきた。避難所には物資を豊富に配るが、個人の家や身内の家、仮設住宅に入った被災者には物資配給を打ち切るという。被災者をどう定義しているのか、問うても返事がない。今、避難所30か所に1000人、仮設住宅19か所に1780所帯4300人、個人の家にいる被災者は3000人に上る。役場の方針だと、9割近い被災者が生活の手立てを打ち切られる。被災者に等しく目を向けてもらいたい。

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