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ホーチミンルート巡礼プロジェクト

ホーチミン・ルートの発見

ヴィエンティアン・タイムズ 2004年1月23日(ニティ・サヤセン記事)(エカポン・プトネシ英訳 古川久雄和訳)

30年が過ぎた今も、南部諸州には戦争の傷跡があらわだ。歴史的な道を辿るなかで、ニティ・サヤセンが触れた状況をお届けする。

ヴィラブリ地区の旅は過去を行く。
つい最近の旅でこのことを思い知らされた。ベトナムへ通ずる9号線沿いを行き、サヴァンナケットの東200キロメートルほど、バン・ナー・ボール・ノイの四辻で、左へ曲がり、約40キロメートル行った。
未舗装道を街中へ行く途中には、チラホラ村があるが、仮住まいを立てて住んでいるのは、住民がいなくなった後に入り込んだ少数民族である。
村人は、米をいまだに臼と杵でついている。高床家の柱も米倉の柱も野菜ポットも、昔の爆弾の殻を使っている。村はまさに戦争の遺物の上にある。
この地区を行く旅行者は、こんな珍しい光景を写真に撮らないで行く事はないと、喜んでいる。30年後も、あちこちに爆弾の大きな穴が口を開いているからだ。

道は修繕されてバスが走れるようになったが、バス会社は1人や二人の乗客では、とバスの運行を拒んでいて、旅行者はベトナム商人の手助けでやって来る。ベトナム商人は干したけのこ、豚、犬、鶏、それに勿論爆弾の殻などの買い付けに大勢がやって来る。古いソ連製のバイクに旅行者を乗せて来るのだ。副区長のブンスアンさんによると、ヴィラブリは(ピン地区から分かれて)1993年に新しく作られた地区だという。サヴァンナケット州の四つの山岳地区のひとつで、住民の生活スタイルは必需品を自然に頼る素朴なものである。昔はこの地区と外の交易がなかったので、家畜や作物もすべて自給だった。

最近この地区に金鉱が開かれて、数千人が働いているが、住民は従業員に売るものが何もないので、稼ぐこともできない。従業員が消費する肉も魚も野菜やお菓子も、すべて外から運び込まれる。この問題には、地区の役所も、金鉱を稼動するオーストラリアの会社も頭が痛い。というのは、彼らも金鉱で住民が潤ってくれれば良いと思っているので。もうすぐ銅鉱山も開かれ、従業員が倍増することになっている。
鉱山会社の職にありついた幸運な村人もわづかだが居り、地域社会も開発の恩恵をわづかに受けている。
将来、第2ナム・トゥン水力発電所のような事業にあたって、住民がどうすれば潤うことができるのか、考える必要がある。
そこに数百年も住んでいる住民がこうした開発の衝撃を受けるのは、間違いない。

村人が金鉱会社から職を貰えなくても、彼らが生き延びるほかの手立てはある。干し竹の子や、爆弾の破片をベトナム人に売るのだ。
しかし、破裂した爆弾の鉄片といった、昔の戦争の遺物を探すのは危険な仕事でもある。不発弾が沢山埋もれているからだ。

このジャングル地帯の中をホーチミン・ルートが走っている。かつて南ベトナムの解放、そしてカンボジアや中部ラオスの開放に貢献した道である。
武器や医薬品が以前の社会主義圏から贈られ、北ベトナムへ運ばれてインドシナ3国の革命を助けた。こうした物品と北の軍隊は南ベトナムの戦場へホーチミン・ルートを通って運ばれた。

ホーチミン・ルートは、南北を分けた17度線を越えて北ベトナムから延びている。ラオスに入って、まづカムアン州東端を通り、サヴァンナケット、サラヴァン、セコンそしてアタプーを通る。ベトナム国境から最も遠い地点では、ラオス側に10キロメートル入っている。ルートは無数の小径から成り、多くの村、地区、ジャングルを縫う。

ホーチミン・ルートはあちこちで袋小路になっていて、攻撃を難しくし、ゲリラ側の安全を図っている。それでも1000キロメートルにわたるルートは、空・陸から撃つ敵軍に激しく爆撃された。
ホーチミン・ルートに、とりわけ激しい攻撃となったのは、敵の空軍による絨毯爆撃だった。葉を枯れさせて木陰に潜む人民軍をむき出しにする目的で、化学薬剤も米軍機から林にまかれた。攻撃機はタイにある米陸軍基地ウタパオから飛来し、B52爆撃機への指令は太平洋にいる米第7艦隊から出された。

ラムスン719高地は、ラオスでの最大の戦場となり、ホーチミン・ルートを切断しようとする敵軍と猛烈な戦闘になった。ここは有名な主要幹線に当たり、援助物資が南の戦場へ行くための要だった。また、ラオス、カンボジア、ベトナム三つの革命軍が連絡する枢軸でもあった。敵はホーチミン・ルートの破壊に多くの狙いをかけていた。

今、ホーチミン・ルートは公式な認定旅行地ではないが、多くの旅行者が訪れ、聞いたり、本で読むだけでなく、自分の目で見て確かめようとしている。
私はサヴァンナケット滞在中のウジタさんと会った。彼は著述家で、ホーチミン・ルートを、カムアン州のボラパーや、ムアン・ナヨム、ヴィラブリ、セポン、ムアン・ピンで訪れたということだった。彼は、これらの地域が一番激しい攻撃を受けたようだと語った。そして、そこに住んでいた人々が、爆撃と戦闘、病気と飢餓の襲う数年間をどうやって生き延びたか、懸念を語った。住民の強靭さに感嘆すると同時に、ヴィラブリの人々がこれから迎えることになるだろう産業開発、そして環境問題に立ち向かえるよう、望んでいると言った。

ルート沿いの戦争の跡は消えてしまったものも多い。道は修復され、戦火で破壊された家が再建され、再定住が始まった所もある。地下壕や油送管、武器、そして死体をもはや見ることはない。戦争を生き延びた人々は老齢となり、既に亡くなった人も多い。しかし、ホーチミン・ルートを行くと、明らかにせねばならない多くの事柄も見える。
最も重要な教訓を学ぶつもりなら、その土地の小さな小屋で命をつなぎ止めてきた住民の生活を探求することが必要だ。彼らの住む小屋はそれ自体がここで起こった歴史の証言だ。

どの国であれ他国に干渉することはなにも生まないし、小国だからとか、近代的でないからといって、他国を破壊することは許されない。これがホーチミン・ルートから学べる最大の教訓だろう。知性があり、相手の痛みが判る人々にとって、戦争は取るべき手段ではないのだ。

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